東京という街は、どんどん変わっていくのが魅力である。
駅と駅の間にも高層ビルが建っている都市は、世界的に見ても東京くらいだと思う。
そして、一定の周期でそのビルもどんどん新しくなっていく。
3年も離れていると、駅前に知らないビルが建っているなどということはざらで、
何なら知らない道が通っていたりする。
そんな事は当たり前だと思ってきた。
しかし、現在進む渋谷の再開発には少し違和感を覚える。
(違和感は渋谷だけだはないが、今回は渋谷について書く。
正直、高輪ゲートウェイもネーミングから不安。泉岳寺で良かったはず。)
東急が渋谷の再開発の構想を出したのは、かなり前のこと。
2002年に「都市再生特別措置法」という法令が制定され、都市の再構築が必要になった背景がある。
そして、どう再構築するか?が問題なのだが、
「『若者の街、渋谷』では経済効果が見込めない。」
これが再構築の答えらしい。
しかし、これは合点がいく。
インターネットの普及により、洋服や雑貨、音楽などがスマートフォンで買える時代になり、実店舗にお金を落とす若者が急激に減っている。
「若者が集まっても、お金が生まれない。これからは、東京に流入してくる若い世帯や感度の高い大人が集まる街に作り替える。」という事らしい。
これは、一時期経営難に見舞われ「セルリアンタワーを手放すか?」とまで言われた状況を考えれば、当然の判断だと思う。
しかし、新たに建ち始めたビルや、そこに入るテナント、そこに集まるヒトを見ていて思う。
ひょっとして、東急は「渋谷」と「たまプラーザ」の分別が付かないんだろうか?
「渋谷」と「二子玉川」の分別が付いていないのではないだろうか?
人を集める事と、街を作ることは違う。
それは、三菱地所が八重洲周辺で展開した開発や、森ビルの虎ノ門ヒルズ周辺、三井の東京ミッドタウン周辺を見れば、よくわかる。
各社は、実に魅力的に街を作り替えた。
COREDO室町は、とても粋で鯔背な雰囲気を出して集客に成功しているし、夜の東京駅や八重洲周辺の景観は感動すら覚える。
六本木周辺はヒルズ族のイメージを払拭し、カルチャーとアートを身近に感じさせてくれる。
東急はベッドタウンの開発には長けていたと思う。
田園都市線は元祖ベットタウンであり、今では目蒲線も形を変えて都心で働く人を輸送する目黒線に生まれ変わった。
鉄道×住宅というソリューションに関しては、ずば抜けていると思う。
しかし、今回の渋谷での再開発を見ていると、それは「集落を作る」というソリューションだったのだと感じる。
よく見ればわかるが、東急電鉄の駅周辺の施設はスタンプを押したように同じようなテイストばかり。スタバがあり、クリスピーがあり、ユナイテッドアローズがあり、カルディの店頭でスタッフがコーヒーを配っている。
武蔵小杉のタワーマンション周辺が未だに洗練されないのもイメージがわく。
余談だが、武蔵小杉の開発の際に川崎市が街の呼称を「ムサコ」にしようとしたらしいが、定着せず「コスギ」になったらしい。
当然である、「ムサコ」は武蔵小山の呼称として都民に定着しているのだ。
話を戻そう。
街と集落は違うとして、もともと渋谷という「街」を作ったのは誰か?という事だが、これは間違いなく東急である。
東急の創設者は渋沢栄一だとされているが、実質的には戦後の渋谷でヤミ市を取り纏めていた五島家であり、五島家が渋谷を作ったと言っていい。
五島家はカネ(資本)ではなく、強いリーダーシップで東急を牽引してきた。
若さと活気に溢れた街を作り続けることに尽力すると同時に、渋谷から鉄道を広げ、沿線に生活圏を作ってきた。
時が流れると共に鉄道沿線で暮らす人々の年齢は上がっていくが、渋谷には常に若者で溢れていた。
今思えば、渋谷には若者だけでなく幼い子供にも魅力的な施設がいくつかあった。
・五島プラネタリウム(現在は渋谷区文化総合センター内に復活)
・たくさんの映画館(東急文化会館には複数の映画館が入っていた)
・電力館(閉館)
・塩とたばこの博物館(現在は墨田区に移転)
もっとあったと思うが、思い出せない。
記憶とは上書きされてしまうものなので、ご容赦いただきたい。
個人的には、映画館を覗く3つの施設と東急ハンズがあれば夏休みの自由研究に困ることはなかったと記憶している。
こうやって書いていると、渋谷という街は大人だけでなく子供や若者にも場所と機会を提供して来たのだと感じる。
五島家と東急は、『未来』を作って来たのだ。
しかし現在、東急に五島家の人間はいない。
そして、そのレガシーも薄れているのではないかと感じる。
文化の街を、実需の街に変えようという話である。
感度の高いヒトが集まる街とは、どんな街を目指したのだろうか?
ネオヒルズ族のような人間を集めたかったのだろうか?
実需の街(集落にはしないで欲しい)ということは、「用がなければ行かない」という事である。
しかし渋谷という街は、「やる事ないけど、とりあえず渋谷行くか。」という若者が偶然の刺激を受けることで魅力を発してきた街である。
私も父親に連れられて映画館に行くだけでなく、自由研究のネタや工作の材料を探しに自転車で通ったりした。青春時代は、意味もなくフラフラして偶然の出会いに歓喜したり偶然の事故に鍛えられたりもした。
その当時、渋谷・恵比寿・原宿で知り合った人間とは今でも何らかしらの形で繋がっている。様々な意味において、少し変わったヒト・モノ・コトに溢れていた。
就職も「渋谷の会社」というのが1番の条件で、今も渋谷で仕事をしている。
やはり渋谷の若者から受ける刺激は、非常に大きなエネルギーである。
時代が変わり、世の中も変わっている。
私も歳を取っただけなのかもしれない。
凄まじいまでのテクノロジーの発達によって、仕事も娯楽も食事も全て自宅で完結出来る世の中になろうとしている。
だからこそ、街としての引力と魅力は消してはいけない。
確かに今は「集まる」ことが制限されている。
これは生命の危機に関することなので致し方ない。
しかしそれは、ヒトとヒトの接点を否定するものではない。
街の価値を否定するものではない。
渋谷が「若者だけの街」である必要はない。
オフィスビルがあって良いし、幅広いヒトのニーズに応える街で良いと思う。
しかし、これからも「若者が主役の街」であって欲しい。
再開発が進む中、ホッとした施設もある。
宮下パークである。
宮下公園は、109、センター街、宇田川町と並ぶ「The 渋谷」というべき場所だが、ホームレスやネーミングライツの問題などもあり、ここ数年は様々な物議を醸してきた。
しかし、新生・宮下パークは「The 渋谷」を残しながら見事に生まれ変わった。
若者たちのエネルギーを、街のエネルギーに変える施設だと感じる。
完成した施設を見て、東急に感じていた違和感が吹き飛んだので調べてみると、渋谷区が三井を指定して作ったことを知り、思わず笑ってしまった。
現在は、桜丘町の開発が進んでいる。
あっという間に建物が取り壊され、今は更地と重機だけという光景。
どこが何を作るのか?は、あえて見ないことにしよう。
桜丘町は、宇田川町と並んで特異な場所である。
宮下パークのようなテイストの施設ができることを期待したい。
そして最後に、若者諸君。
これからも渋谷を盛り上げて欲しい。
大人達と喧嘩して仲直りしてを3周くらい繰り返し、若くして社会に対して胸を張って活きる人間になるには、これ以上ない街である。
今日はここまで。
最後まで読んで頂いた貴方に、心から感謝を。
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